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梅にまつわる故事から、当時の人の生活や意識が垣間見える。

この記事を読むのに必要な時間は約 9 分です。

梅は古くから人々に好まれてきた。
中国でも日本でも。

梅とともに過ごした日常があり、
人々が梅を慈しんだ日々がある。

長い年月のあいだ、
梅にまつわる出来事は
いくつもあったはずです。

そのなかで梅にまつわる諺(ことわざ)や
梅についての言い伝えなどは多くあり、
すでに別記事にて書いてきました。

そこで今回は、古い話・故事から、
梅にまつわるものを集めてみることにします。

それでは、いってみましょ~。

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梅と故事

故事とは、昔あった出来事や昔から伝わる話。
古典などに記されている事柄など。

また、これにより得られた教訓や戒め、
観念など、物事をたとえたり示したりする
ときに使われる言葉を、故事成語あるいは
故事成句という。

今回集めた言葉は、梅にまつわる故事。

教訓や観念などを含んだ故事成語もあれば、
ちょっとした出来事に過ぎないものもある。
しかしどれもが昔の記録に残る、梅との記憶。

昔の人と梅との物語なのです。

梅干し

まずは梅干しにまつわる故事から。
その梅干しは縁起を担ぐのです。

  • 大福茶
  • 申年の梅

大福茶

お茶と梅干しの取り合わせ。

「大福茶」
だいふくちゃ

「元旦の朝に大福茶」
がんたんのあさにだいふくちゃ

一年の無病息災を願う縁起物の茶。
元旦に、梅干しや昆布に煎茶を注ぎ入れて飲む。

951年、村上天皇の時代。
疫病が流行したとき、六波羅寺の空也上人が
観音菩薩像を作って車に乗せ、洛中を回った。

このときお供えしたお茶を病人に飲ませた
ところ、多くのものがことごとく平癒。
そのうち疫病はおさまった。

村上天皇はこれを聞き、毎年正月と節分には
必ず茶を服すようになった。

これを皇(皇)服茶といい、のちに大福茶と
いわれるようになり今に至るということです。

申年の梅

申年(さるどし)の梅についての言葉。
申とは、十二支の申(さる)。

「申年の梅はよい」
「申年の梅は病気が去る」
「申年の梅は縁起がいい」
「申年し梅には神が宿る」

申年の梅は、特別視されています。
この由来は次の故事からによるもの。

平安時代に流行った疫病で、
村上天皇もまた病を患った。(960年)

そのときに梅干しと昆布入りのお茶で快癒
されたが、その梅干しが申年の梅であった
ことから、申年の梅はよいという話になった
のだとか。

昔から申年は「去る」とかけることがあり、
病気が去るとして縁起を担いだのでしょう。

梅は厄除けになるなどともいわれており、
申年は十二年に一度に来るもの。
なんだか特別感がありますね。
おまけに申年は、梅が不作とも聞きます。

梅の実

次は、梅の実にまつわる故事。

  • 梅酸渇を止む
  • 和羹塩梅

梅酸渇を止む

梅の実の恵みとは。

表現はいくつかあるけど意味は同じ。

「梅酸渇を止む」
ばいさんかつをとどむ
(「梅酸止渇」ばいさんしかつ)

「梅を望んで渇を止む」
うめをのぞんでかわきをとどむ
(「望梅止渇」ぼうばいしかつ)

「止渇之梅」
しかつのうめ

代わりのものであっても、
一時の間に合わせにはなるということ。

軍隊が行軍中に水が無いため、
兵士たちは喉の乾きを訴えている。

そこで、先へ進めば梅林があり、
喉の乾きを癒すことができる、
といいきかせた。

すると口中に唾液が出てきて、
一時的に喉の渇きをしのぐことができた。

これは中国の書にある故事から。

逸話集『世説新語(せせつしんご)』の
仮譎(かきつ)篇「梅林止渇(ばいりんしかつ」

和羹塩梅

梅の実はいかに重宝されていたか。
いかに身近なものとして使われていたのかがわかる。

「和羹塩梅」
わこうあんばい・わこうえんばい

君主を補佐し、国を正しく治める
有能な宰相や大臣などをいう。

味の良い吸い物は、塩と梅酢とを
よく合わせ味付けをして作るもの。
そのように国をうまく調整し、
よくするために王を正してほしい。

古い中国の歴史書で儒教の経典でもある
『書経(しょきょう)』からの故事。

「和羹」とは、さまざまな材料・調味料を
合わせ味を整えて作る、吸い物のこと。

「塩梅」とは、調味に使う塩と梅酢のこと。
また、味の加減がちょうどいい、程よい状態。

梅酢とは、梅から抽出される酸味のある汁の
こと。古くから調味料として使われていた。

 

塩梅については別記事にも書いているので
よろしければどうぞ~。

→「塩梅ってなに?

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梅の木

梅の木にまつわる故事。

  • 箙の梅
  • 鶯宿梅
  • 左近の梅
  • 梅妻鶴子

箙の梅

雅な武将の逸話。

「箙の梅」
えびらのうめ

源頼朝軍の将である、
梶原源太景李(かじわらのげんだかげすえ)が
箙(えびら)に梅の花の枝を刺して戦った。
(箙とは、矢を入れる道具のこと)

『源平盛衰記』による故事から。

鶯宿梅

梅と鴬のとりあわせ。

「鶯宿梅」
おうしゅくばい

鶯(うぐいす)が宿る梅、という意味。
紀貫之(きのつらゆき)の娘である、
紀内侍(きのないし)の家にあった梅の木。

村上天皇の時代に清涼殿(せいりょうでん)の
梅の木が枯れ、その代わりにと探させたのが
紀内侍の梅であった。

内侍は梅の宿がなくなったことを鶯にどう
こたえればよいのか、と歌で伝えたところ、
天皇はこれに深く恥じたという。

『拾遺和歌集』・『大鏡』などからの故事。

左近の梅

梅か桜か、時代とともに移り変わる。

「左近の梅」
さこんのうめ

桓武天皇が都を平安京に移した際に、
内裏の紫宸殿(ししんでん)に「左近の梅」と
「右近の橘(うこんのたちばな)」が植えられた。

その後「左近の梅」は枯れ、仁明(にんみょう)
天皇によって植え替えられた。
しかしその後、内裏が焼失。
村上天皇により植え替えられたとされる。

そしていつしか梅から桜へと植え替えられた
のだが、いつなのか詳細は定かではない。
遣唐使の廃止とともに植え替えられたのでは、
という説もあるようです。

そして今に至るまで、紫宸殿には
「左近の桜」「右近の橘」となっている。

梅妻鶴子

梅を愛した詩人。

「梅妻鶴子」
ばいさいかくし

俗世間から離れて風雅に暮らすことのたとえ。

中国、宋の詩人である林逋(りんぽ)は
西湖の近くに独り風雅に隠居していたが、
梅と鶴と共に過ごしていたために
周囲の人は林逋を「梅妻鶴子」
(梅を妻とし鶴を子としている)と言った。

林逋の没後、北宋の皇帝・仁宗(じんそう)は
林逋に贈り名をつけ、林和靖とした。

中国の詩話集『詩話総亀(しわそうき)』から。

後記

さて今回は、
梅にまつわる故事を集めてみました。

梅と人との話は幾多ありますが、
梅が咲くのは年に一時期。

早春に花が咲き、花が終われば葉が出る。
実を育て、初夏に実と種とを落とし、
秋には葉が落ちて寒々とした枝が残る。

1年は早いものですが、毎年このめぐりが
順調にやってくることを望みます。

何事もない1年というものが、
どれだけ平和で心地のいいものかと。

新型コロナが流行ってからの今日、
そう思わずにはいられないのです。

 

それでは今回はこのへんで。
ここまでおつきあいくださいまして
ありがとうございます。

どんなときであっても、花を愛でる
余裕をもちたいものですヽ(´ー`)ノ

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