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梅は古くから人々に好まれてきた。
中国でも日本でも。
梅とともに過ごした日常があり、
人々が梅を慈しんだ日々がある。
長い年月のあいだ、
梅にまつわる出来事は
いくつもあったはずです。
そのなかで梅にまつわる諺(ことわざ)や
梅についての言い伝えなどは多くあり、
すでに別記事にて書いてきました。
そこで今回は、古い話・故事から、
梅にまつわるものを集めてみることにします。
それでは、いってみましょ~。
梅と故事
故事とは、昔あった出来事や昔から伝わる話。
古典などに記されている事柄など。
また、これにより得られた教訓や戒め、
観念など、物事をたとえたり示したりする
ときに使われる言葉を、故事成語あるいは
故事成句という。
今回集めた言葉は、梅にまつわる故事。
教訓や観念などを含んだ故事成語もあれば、
ちょっとした出来事に過ぎないものもある。
しかしどれもが昔の記録に残る、梅との記憶。
昔の人と梅との物語なのです。
梅干し
まずは梅干しにまつわる故事から。
その梅干しは縁起を担ぐのです。
- 大福茶
- 申年の梅
大福茶
お茶と梅干しの取り合わせ。
「大福茶」
だいふくちゃ
「元旦の朝に大福茶」
がんたんのあさにだいふくちゃ
一年の無病息災を願う縁起物の茶。
元旦に、梅干しや昆布に煎茶を注ぎ入れて飲む。
◇
951年、村上天皇の時代。
疫病が流行したとき、六波羅寺の空也上人が
観音菩薩像を作って車に乗せ、洛中を回った。
このときお供えしたお茶を病人に飲ませた
ところ、多くのものがことごとく平癒。
そのうち疫病はおさまった。
村上天皇はこれを聞き、毎年正月と節分には
必ず茶を服すようになった。
これを皇(皇)服茶といい、のちに大福茶と
いわれるようになり今に至るということです。
申年の梅
申年(さるどし)の梅についての言葉。
申とは、十二支の申(さる)。
「申年の梅はよい」
「申年の梅は病気が去る」
「申年の梅は縁起がいい」
「申年し梅には神が宿る」
申年の梅は、特別視されています。
この由来は次の故事からによるもの。
◇
平安時代に流行った疫病で、
村上天皇もまた病を患った。(960年)
そのときに梅干しと昆布入りのお茶で快癒
されたが、その梅干しが申年の梅であった
ことから、申年の梅はよいという話になった
のだとか。
◇
昔から申年は「去る」とかけることがあり、
病気が去るとして縁起を担いだのでしょう。
梅は厄除けになるなどともいわれており、
申年は十二年に一度に来るもの。
なんだか特別感がありますね。
おまけに申年は、梅が不作とも聞きます。
梅の実
次は、梅の実にまつわる故事。
- 梅酸渇を止む
- 和羹塩梅
梅酸渇を止む
梅の実の恵みとは。
表現はいくつかあるけど意味は同じ。
「梅酸渇を止む」
ばいさんかつをとどむ
(「梅酸止渇」ばいさんしかつ)
「梅を望んで渇を止む」
うめをのぞんでかわきをとどむ
(「望梅止渇」ぼうばいしかつ)
「止渇之梅」
しかつのうめ
代わりのものであっても、
一時の間に合わせにはなるということ。
◇
軍隊が行軍中に水が無いため、
兵士たちは喉の乾きを訴えている。
そこで、先へ進めば梅林があり、
喉の乾きを癒すことができる、
といいきかせた。
すると口中に唾液が出てきて、
一時的に喉の渇きをしのぐことができた。
これは中国の書にある故事から。
逸話集『世説新語(せせつしんご)』の
仮譎(かきつ)篇「梅林止渇(ばいりんしかつ」
和羹塩梅
梅の実はいかに重宝されていたか。
いかに身近なものとして使われていたのかがわかる。
「和羹塩梅」
わこうあんばい・わこうえんばい
君主を補佐し、国を正しく治める
有能な宰相や大臣などをいう。
◇
味の良い吸い物は、塩と梅酢とを
よく合わせ味付けをして作るもの。
そのように国をうまく調整し、
よくするために王を正してほしい。
古い中国の歴史書で儒教の経典でもある
『書経(しょきょう)』からの故事。
◇
「和羹」とは、さまざまな材料・調味料を
合わせ味を整えて作る、吸い物のこと。
「塩梅」とは、調味に使う塩と梅酢のこと。
また、味の加減がちょうどいい、程よい状態。
梅酢とは、梅から抽出される酸味のある汁の
こと。古くから調味料として使われていた。
塩梅については別記事にも書いているので
よろしければどうぞ~。
→「塩梅ってなに?」
梅の木
梅の木にまつわる故事。
- 箙の梅
- 鶯宿梅
- 左近の梅
- 梅妻鶴子
箙の梅
雅な武将の逸話。
「箙の梅」
えびらのうめ
源頼朝軍の将である、
梶原源太景李(かじわらのげんだかげすえ)が
箙(えびら)に梅の花の枝を刺して戦った。
(箙とは、矢を入れる道具のこと)
『源平盛衰記』による故事から。
鶯宿梅
梅と鴬のとりあわせ。
「鶯宿梅」
おうしゅくばい
鶯(うぐいす)が宿る梅、という意味。
紀貫之(きのつらゆき)の娘である、
紀内侍(きのないし)の家にあった梅の木。
◇
村上天皇の時代に清涼殿(せいりょうでん)の
梅の木が枯れ、その代わりにと探させたのが
紀内侍の梅であった。
内侍は梅の宿がなくなったことを鶯にどう
こたえればよいのか、と歌で伝えたところ、
天皇はこれに深く恥じたという。
『拾遺和歌集』・『大鏡』などからの故事。
左近の梅
梅か桜か、時代とともに移り変わる。
「左近の梅」
さこんのうめ
桓武天皇が都を平安京に移した際に、
内裏の紫宸殿(ししんでん)に「左近の梅」と
「右近の橘(うこんのたちばな)」が植えられた。
その後「左近の梅」は枯れ、仁明(にんみょう)
天皇によって植え替えられた。
しかしその後、内裏が焼失。
村上天皇により植え替えられたとされる。
そしていつしか梅から桜へと植え替えられた
のだが、いつなのか詳細は定かではない。
遣唐使の廃止とともに植え替えられたのでは、
という説もあるようです。
そして今に至るまで、紫宸殿には
「左近の桜」「右近の橘」となっている。
梅妻鶴子
梅を愛した詩人。
「梅妻鶴子」
ばいさいかくし
俗世間から離れて風雅に暮らすことのたとえ。
◇
中国、宋の詩人である林逋(りんぽ)は
西湖の近くに独り風雅に隠居していたが、
梅と鶴と共に過ごしていたために
周囲の人は林逋を「梅妻鶴子」
(梅を妻とし鶴を子としている)と言った。
林逋の没後、北宋の皇帝・仁宗(じんそう)は
林逋に贈り名をつけ、林和靖とした。
中国の詩話集『詩話総亀(しわそうき)』から。
後記
さて今回は、
梅にまつわる故事を集めてみました。
梅と人との話は幾多ありますが、
梅が咲くのは年に一時期。
早春に花が咲き、花が終われば葉が出る。
実を育て、初夏に実と種とを落とし、
秋には葉が落ちて寒々とした枝が残る。
1年は早いものですが、毎年このめぐりが
順調にやってくることを望みます。
何事もない1年というものが、
どれだけ平和で心地のいいものかと。
新型コロナが流行ってからの今日、
そう思わずにはいられないのです。
それでは今回はこのへんで。
ここまでおつきあいくださいまして
ありがとうございます。
どんなときであっても、花を愛でる
余裕をもちたいものですヽ(´ー`)ノ